淘汰される大学教授、教授で生き残れ!

今月はじめに(11月2日)に、

大学設置・学校法人審議会が来春の開学認可を答申していた3大学に、田中眞紀子文部科学大臣が不認可にした問題

は世間を騒がした。

確かに、18歳人口が減少していっている中、大学を増やしていくのは如何なものか?という問題意識は間違ってはいない。



団塊ジュニア世代が大学に入学をした1992年(1973年生まれ, 出生数209万1983人)をピークに, 18歳人口は
減少を続けている. 「2031年までの18歳人口動態と4年生大学進学者数予想(2010年4月, ベネッセ)」をみると一目瞭然である。



国立大学の法人化、国立大学法人への運営交付金削減、私立大学への私学助成金削減、ポスドク問題など、
大学教授をめざす若手研究者にとって、明るいニュースはあまり聞こえてこない。
大学教授をめざす若手研究者はどうすればよいのだろうか?



そのような問いに対する一つの回答として刺激的なタイトルの本

こんな大学教授はいりません、「淘汰の時代」に求められる人材

という本が鷲田小彌太(元札幌大教授、三重短期大教授)によって今年の2月に言視舎から出版されている。

こんな大学教授はいりません

こんな大学教授はいりません

下記、amazonより抜粋。

「これまで」の大学と大学の「これから」がわかる!なりたい人・気になる人必読!偏差値50でも大学教授になれる。しかし、だれもが必要な人材であるわけではない。どんな人材が求められているのか、その基準を明確にする。無能教師が震え上がる「大学教授」がなすべき仕事の最低ラインもはっきり提示。大学教員数は高校教員とほぼ同じ20万人。完全に大衆化した大学には、何が求められているのかも明らかに。「任期制」の導入、「定員制」の廃止、国立大学の廃止ほか、これまでの『大学教授になる方法』で述べなかった大胆かつ具体的な提言をふんだんに盛り込む。それでも、大学教授になりたい人のためのテーゼを盛り込む。

文系教員の書いたものであり、理系の研究者からみると、
ヒラノ教授をめざせ!」で
紹介した、大学教員を目指す人にとって必読の書である、東工大名誉教授である今野浩教授が書いた、
工学部ヒラノ教授
とは一風違った視点で大学の現状を把握できるだろう。ただし、著者の経験から、地方公立大、地方私立大という
少し特殊な環境(ただし、そのポストは多い)であることは否めないが、国立大学や首都圏私立大にも共通の事も多くあり、
教授をめざす若手一般にとっても得ることは多くあると思われる。

以下では、本文中で印象に残った文章を幾つか抜き書きしておこう。

全国の大学の教員数は常勤だけでもおよそ20万人数える。これは高校教員(本務校勤務)の数に等しい。

これは、調べてみると、17万7571人という数値が「政府統計の総合窓口」にはある。

また、2008年の資料だが、職階別や国公私立別にもグラフ化してあり、分かり易いものもある。これらの資料が特任教員を含むかどうかは不明ではあるが。。
ちなみに、先ほどの政府統計のページにあるエクセルファイルによると、高等学校教員数は23万7221人だそうである。
確かに、大学数はこのページ左下にもズラズラと記載しているように750校以上ある訳だし、大学を選ばなければ、大学教授への道はそう難しくない
様に思えるだろうか。

大学教授になったのは「研究」が好きだからだ、という人も、その大部分が、数年、
長くても10年たつと、「研究」に飽きる。というか、研究意欲が細くなる。
多くは消滅する。

これは若手研究者もそうならないように、自戒しながら日々の研究に取り組んでいく必要がある。
如何に研究のモチベーションを保つか。。

研究は、他人から見ると「きらく」なのがいい、というのが私見である。つまりは「フリータイム」だ。
しかし、内実は「フルタイム」である。休みはない息抜きはあっても、エンドレスである。
これが研究の研究たるゆえんだろう。

これは全く同感である。私の博士時代の同級生も「研究は終わりがないから、もうやりたくない」と業界を去っていった。

面白い授業という。しかし「面白さ」とは何だろう。最低限の条件をあげれば、
第1は知的である、第2に内容に興味が湧き、第3にその内容を表現することが巧みで、
第4に授業の成果を試験などで適切に評価できる、ということになるだろう。
(中略)
教育に最も大事な「技術」は「知的である」ということだ。
(中略)
知的好奇心をそそる内容・表現・評価をどうするか、ここがポイントである。

と、言われてみれば当たり前だが疎かにはできない事が主張されている。
「知的である」とはどういう事か。「知性が感じられる様
であるが、「知性」という言葉の意味からして、
比較・抽象化・概念化・判断・推理など、様々なプロセスを経て、物事を理解しようとする営みが感じられる様ではないかと思われる。





近年の情報技術の発展により、一般人が情報を発することが容易になり、マスコミなど、これまでと社会における位置づけが
変わってきている業種が多くある。著者は大学も同様に変わらなければいけないと説く。
ここで著者は

専門的教養こそ知の主戦場である

と、総合的な高い教養を持つことがこれからの大学教授にとっては必要だと主張する。

これはあまりよく判らない話のようであるが、
一方で、放送大学で放送されている程度の知識は大学教員なら持っていなければいけない、
とういうような話のようにも思える。放送大学では、かなり専門的な内容をBSアンテナさえあれば、誰でも
無料で視聴できる。今後、このような仕組みはインターネットを通じてどんどん進んでいくことが予想される。
大学に行って座って講義を受けるということにどれだけ意味があるのか?というような議論もでてくることだろう。

この3年間、1本も論文がない。5年間でわずかに1本だ。こういう人がいまなおいる。「第三者機関」の業績審査でバツがでる。
補助・助成金査定に響く。こんなことが囁かれる。
(中略)
大学教授が論文、著書、主著の類を出さない。その研究活動の実態が他者には見えない。当然、無為に過ごしていると思われても仕方ない。

これは確かによくある話だ。これをなんとかするには、成果は出ようと出ていまいと、日頃、大学教員が何を考え、何を研究しようとしているか、
それを情報発信していくことではないかと思われる。とにかく外に出ていくこと、外に情報を出すこと、
研究の価値は他人の判断に委ねるということを短いスパンでおこなっていくことである。これは近年の科学出版の流れにもある
http://ja.wikipedia.org/wiki/PLoS_ONE
にあるような「外部の査読を通過した原稿は科学分野での重要性・関連性が低くても除外されない。(中略)刊行後に利用者が議論や評価を行うことができる。」という様なスタンスで情報を発信していくことが新しいスタンダードとなっていくのではないかと思われる。





最後に「大学教授になる最短距離は」として、5点上げてある(一部略、改変)

1. しかるべき博士課程をでることである。
2. しかるべき学術専門書を書くことである。
3. しかるべき有力教授の「弟子」になることである。
4. 日本の大学院に入れない学力の持ち主は欧米の大学院へ行くと良い
5. 多様な分野に将来進める「専門」を専攻するといい。境界領域の希薄な分野である。就職の間口がうんと広がる

特に3と5は職を得ることにとって、重要であろうと思われる。



本全般を通して、多くの事が述べられている反面、一つ一つのことに対するコメントが短く、もう少し腰を落ち着けて、しっかりと
書いて欲しかったという気がしないではない。
著者は退職して時間が多くあるはずなので、さらなる続編に期待したい。